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子どもらしきもの

はじめまして。

自分の思考を言語化する作業をしたい、と思い、ブログを書くことになりました。

 

ブログって寂しがり屋で自己主張が激しい人のためのツールだと、なかば軽蔑の眼差しを向けていたのですが、まとまって文章を書く機会が失われた今(twitterは140字、Instagramはイメージ+意味を持たないハッシュタグ)、ブログというツールは侮れないのではないかと思った次第です。

 

あんまりこうくくるのも好きではないけれども、日本人って少ない文字数でまとめるのが好きな気がします。

この前、『ちはやふる』という映画を見ました。ご存知、競技かるたをめぐる青春スペクタクル漫画を原作とした映画なわけですが、その中で和歌の解説をいちいちしてくれる和文化好きな「奏(カナ)」というキャラがいます。

彼女の和歌の解説を聞いて、いちいち部員が「そういう意味だったのか!」と驚くシーンがあって、「いやいや、競技かるたやってるなら意味は知っとけ」と思う反面、奏ちゃんの発言にびっくりする部員に、「知らないままでいいよ」と声をかけたくなる自分もいました。

 

だって、31字で全てを理解しろって無理な話だよ。言外の意味も、背景も全て理解した上で解釈しろって、そ、そんな、和歌、傲慢すぎひん?

 

時代が下ってツイッターも140字に拡張されたとはいえ、その人のバックグラウンドを知った上で理解しないといけない、いわゆる「文脈判断」を強要している。しかも内容はプライベート(中にはパブリックなのもありますが、今は置いといて)。め、めんどくさい。

 

いや、コミュニケーションは全て文脈判断と言っていいんですけどね、でも、私はそれに慣れて来てしまった分、ある一定の量まとまった文章を書けなくなってしまったような気がして、そういう危機感からブログを書き始めようと決意しました。しかも、コミュニケーションは文脈判断と言っても、バックグラウンドを共有してない人とは文脈判断で会話はできないでしょう?

 

昨日、マームとジプシーの藤田貴大氏のエッセイ『おんなのこはもりのなか』を読んで、あ、私的なことでも、文脈判断を必要としない文章があるのか、と思いました(ぜひ読んでみてください)。

ツイッターは開いてるのか閉じてるのかわからない文章。鍋が煮立ってきた頃貝がちょっとパカってするくらいの開き具合に似ている。それに対して、藤田さんのエッセイはツイッターと一線を画する、「開かれた」プライベートな文章。あけすけ。見てて恥ずかしい。けど、そこに飛び込みたくなる。

私はこういうのを書きたい。

 

でも、なぜ開かれたプライベートな文章を書く必要があるのか?

ぶっちゃけわかりません。でも、藤田さんや他の人のエッセイやブログを読んで、共感した時のあのニヤついちゃう感じ、私もあれを世の中に出したいと思ったんです。

ああいう文章は自己満ではあるのだけど、なんていうか、自分が産んだ子どもみたいな。自分とは別の、乖離した存在でありながら、自分に恩恵や意味やその他諸々をもたらしてくれ、私を離れてもなお他人に対してそれを与えることができる、そんなものだと思います。

 

論文で言うところのイントロダクションを書いたところで、お次からは本論です。

よろしくお願いします。

 

mio